第三十五回 お内仏の荘厳(本尊三)

 今年もお盆を無事に終わらせていただきました。次はお彼岸です。お彼岸の簡単な説明も、過去に説明をしてありますので、そちらをご覧願います。

 さて、今回は今一度、御本尊のお話です。どこの宗派も御本尊様あっての教団ですから。
 本山も「御本尊は本山から受けましょう」という言葉を大切にしています。原理的に言いますと、本山の裏書きがない阿弥陀様は、ただの印刷物扱いです。
 ですが、説明するもの自体が存在しなければ、布教すらできません。これも、方便の一つということでしょうか。
 ということで、今更、ご家庭が長年大切にしていらっしゃる阿弥陀様に、何か一言をいう無粋なお寺さんは、まずはいないと思います。
 ただ、お内仏を購入のときに、相談を受けることがありましたら、間違いなく「三尊は本山から受けてください」というお言葉をかけられるとは思いますが。
 なお、今回、写真に載せられた家のお内仏の三尊軸は、すべて、間違いなく京都御本山からの軸です。

 このコーナーで、今まで様々なお内仏について紹介をさせていただきました。ですが、本尊は、どの家庭のお内仏も絵像となっております。
 実は、木像の阿弥陀様の写真も、いくつかとってあります。ですが、やはり、木像の阿弥陀様が本山から承認された本尊(詳細は第三十一回に述べてあります)であると、はっきり証明されない限り、のせることはできません。
 ほかにも理由があります。形態に対しても、新しい白木のままの阿弥陀様、また逆に、年期が入ったゆえに、遠くからは顔かたちが判別しずらい阿弥陀様、まばゆいばかりに全身が金箔の阿弥陀様、とまあ、様々な阿弥陀様がいらっしゃいました。中には、西本願寺型の舟形光背(ふながたこうはい)の阿弥陀様も。よって、どこかのお内仏の阿弥陀様を掲載いたしますと、その形こそが、正式だと誤解される可能性もあるというのが、木像の阿弥陀様の写真を掲載していない理由の一つです。

 どうしても、ご本尊の木像の概要を知りたい方は、当寺のホームページ最初の画面をご覧願います。
 さて、このホームページを最初につくったときですが、あるお寺さんから、「本尊の写真を、表に出すのはやめた方がいいのじゃないか」という指摘をうけました。
 そのようなことで、早速、御本山に問い合わせをしました。結果、「望ましいことではないが、今はこのような時勢だから、仕方がないでしょう」というお答えでした。
 本心なら反対、一昔前だったら許されない、ということです。それだけ、木像の本尊の写真公開は微妙な問題なのです。
 以前も説明をしましたが、蓮如上人のお言葉に、『当流には、木像よりは絵像、絵像よりは名号といふなり』
 というお言葉があります。『蓮如上人御聞書 七十』
 上人によると、木像は三番目のあつかいということなのですが、形が、はっきりとしているものだけに特別感がどうしてもおきます。というわけでもないですが、木像の阿弥陀様を、お持ちの御門徒さんたちは、こころもち優越感を持っている感じがします。

 ここで、一つ確認したいことがあります。本尊に値する六字名号とは、裏書きはもちろんのこと、青蓮華(華座けざ)の上に書かれている六字名号となります。
 前回、『九字名号、十字名号』のお話をしましたが、今まで紹介した、写真の脇掛けよく見て下さい。どちらも、華座の上に名号が書かれています。これが、非常に大切なことなのです。
 九字名号、十字名号は阿弥陀様のはたらきを、文字として表しています。華座の上に書かれていることは、こちらも、何度も説明をしました通り、仏様への悟りを開かれた姿をあらわしていることになるのです。

 ここで、改めて華座のお話をするのには、大きな理由があります。東本願寺の木像の阿弥陀様の華座は特殊な形になっております。華座から上部にかけて、蓮が三本上に伸びております。これは、華光出仏(けこうしゅつぶつ)といいまして、仏様の状態を表しております。

 華光出仏とは何でしょうか。浄土真宗の教えは浄土三部経をもととしております。『仏説大無量寿経』、『仏説観無量寿経』、『仏説阿弥陀経』の三つの経典です。その中の一番長い経典『仏説大無量寿経』、大経と略すのですが、大経は上、下巻に分かれております。その上巻の一番最後をしめくくるように、
 一一華中 出三十六百千億光 一一光中 出三十六百千億佛 身色紫金 相好殊特 一一諸佛 又放百千光明 普爲十方 說微妙法 如是諸佛 各各安立 無量衆生 於佛正道
 という経文があります。
 親鸞聖人の和讃にも、『浄土和讃』の七に、
『一一のはなのなかよりは 三十六百千億の 光明てらしてほがらかに いたらぬところはさらになし』
『一一のはなのなかよりは 三十六百千億の 仏身も光もひとしくて 相好金山のごとくなり』
 とあります。
 この三十六百千億という言葉ですが、数え切れないほど無数、つまり、ありとあらゆる場所ということです。一体の阿弥陀様に見えるのですが、無数の光ということです。一つ一つの華から、無数の仏様が現れている状態ということでしょうか。
 絵像の阿弥陀様では、そこまで具現されておりません。大変失礼で変な言い方ですが、木像の三本の蓮は、阿弥陀様の状態を、より立体的に説明する補助的な役割ということでしょう。

 お西の方の舟形光背にも、必ず大きな意味がありますので、一度詳しいことを、関係者に聞いて、説明しようと思っております。

 さて、話はかわりますが、以前から何度かにかけて、お内仏の形式について説明をしてきました。写真が全くなしというのも寂しいので、今回は小口味方に(写真上・下)ついて説明をさせていただきます。
 ご覧のように、前方が金障子になっていることがおわかりかと思います。支柱になる大柱は壁に付いているわけではなく、隙間があるような状況です。
 これだけの細工でも、かなりの技術を要します。
 本三方は、この状況に、まったく横板がなしということですので、より以上の技法が必要です。本当に手がかかる、すごいものなのですね。