第三十六回 お内仏の荘厳(本尊四)

 今年もお盆を無事に終わらせていただきました。次はお彼岸です。お彼岸の簡単な説明も、過去に説明をしてありますので、そちらをご覧願います。

 十月です。十月になりますと、報恩講を勤められる真宗寺院も、ちらほら出てきます。
 ということで、本来なら報恩講関係の話をするのが、流れだと思いますが、半年前からお内仏の説明をしてますので、そちらを優先させていただきます。

 これまで、数回にわたり、阿弥陀様のお姿について、説明をさせていただきました。
 32回では、阿弥陀様のまわりに、本願である四十八願(しじゅうはちがん)をあらわす、四十八本の光の線が描かれていること。
 33回では、阿弥陀様のお姿は仮の姿であり、「方便法身尊形」(ほうべんほっしんそんぎょう)。お釈迦様の特長である三十二相八十随形好(さんじゅうにそうはちじゅうずいぎょうこう)を模していると、
 両手が、施無畏(せむい)と与願(よがん)の印相をしているということ、
 35回の木像におきましては、華光出仏(けこうしゅつぶつ)として、蓮台から無数の仏様のお姿が光となっていることについてです。

 今回のテーマは、阿弥陀様が、お立ちの姿になっていることです。
「立っていることが特徴なの?」と拍子抜けをされた方もいらっしゃるかと思いますが、このことは、とても大きなことなのです。実際、仏教関係者の間では、仏様が座っている、立っているを巡って長い間、論争がありましたので。

 聖徳太子の時代、仏教が日本に伝来されてきました。百済観音像(くだらかんのん)が有名です。観音像は立像姿です。奈良時代になり、光明皇后(こうみょうこうごう)により、東大寺の大仏建立事業が始まりました。奈良の大仏は皆様方もご存じのように座像です。
 座っている姿というのは、お釈迦様が、悟りを得るために菩提樹の下で座禅を組み瞑想をしているお姿を表してと言われています。

 平安時代に末法思想(まっぽうしそう)が、流行しました。末法思想は何度も何度も説明をしましたとおり、日本における浄土思想の原点たるものです。
 お釈迦様が、この世を去ってから、最初の500年が正法、次の500年が像法、そして、その後、末法の世がおとずれ、仏様の教えが消えてしまい、世は乱れ、どうにもならない世界になってしまう、という教えです。その教えにより、有力な貴族たちが、救いを求めるため、お堂を建て、阿弥陀様を信仰し始めました。
 有名なのは、宇治の平等院鳳凰堂、中尊寺金色堂の阿弥陀像です。
 こちらの阿弥陀様は座像です。そして、手印の方も違っています。両手をおなかの前におき、両方の親指と人差し指で輪をつくる(禅)定印(じょういん)という形を取っています。
 理由はきっとこうでしょう。定印というのは別名、上品上生印(じょうぼんじょうしょう)と呼ばれています。
 極楽往生には九品往生(くほんおうじょう)といい、九種類の方法があって、上から、上品上生、上品中生、上品下生、中品上生、中品中生、中品下生、下品上生、下品中生、下品下生、と呼ばれています。
 上品上生は最高ランクです。阿弥陀像をつくられた方は、最高への往生を願ったのでしょう。
九品については、『浄土三部経』の中の『仏説観無量寿経』の『散善三観』(さんぜんさんかん)に説明されております。
 『昭和法要式』に編纂された第三段の最初に、以下の文節が出てきます。
『佛告阿難・及韋提希・上品上生者・若有衆生・願生彼國者・發三種心・即便往生』
座像、定印の形式は鎌倉の大仏にも引き継がれます。

 浄土真宗では、阿弥陀様の像は、施無畏・与願の印相で立像という形を取りました。
 与願という言葉は、読んで字のごとく、願いを与えると言う意味です。
 対して、施無畏の方は、無畏を施すということですが、無畏というのは、普段使わない言葉です。
 無畏というのは辞書で調べると、恐れることはない、ひるむことはないという意味です。
 施無畏は仏教用語で、『法華経』の『観世音菩薩普門品』が原典です。よって、観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)の別名とも言われています。

 施無畏・与願のお姿は、俗にこのように伝えられています。「わたしを、おそれることはありませんよ。さあ、どうぞ、願いを聞いてあげますから」というように、
 ですが、施無畏はもう一つ、意味が深いことですので、浄土真宗では、施無畏印は知恵をあらわす、与願印は慈悲をあらわすと説明をしております。

 立像の話に戻りましょう。目の前に、立っている人と座っている二人がいたら、どちらが自分にリアルか、近いと考えるでしょうか。むろん、立っている方です。
 また、阿弥陀様は蓮の上に直立で立っている状態では御座いません。写真を見てください。わかりにくいのですが、ほんの、わずかですが前に傾いております。まさに、皆様方に手を差し伸べようとしている姿でしょうか。
 こちらには、原典を紹介させていただきましょう。
またも『仏説観無量寿経』ですが、そのなかの華座(けざ)観に次のような文節が御座います。
『佛告阿難・及韋提希・諦聽諦聽・善思念之・佛當爲汝・分別解說・除苦惱法・汝等憶持・廣爲大衆・分別解說・說是語時・無量壽佛・住立空中』
『昭和法様式』となった第二段の最初です。

 ここで、重要なのは、最後の住立空中という語句です。
 住立空中尊(じゅうりゅうくうちゅうそん)というのは、仏様が衆生の人たちに対して、お説法をしていたとき、ずっと、座っていることができずに、思わず立ち上がって、一歩踏み出したお姿ということです。
 何度も、本尊(写真)の前で合掌をすることは、仏様の教えを聞き、受け継ぐということであると、説明させていただきました。阿弥陀様の方も、また、教えを聞きにきた皆様のことを、それだけ、気に掛けているのです。
 なお、余談ですが、立像で施無畏・与願印の大仏も存在します。浄土真宗東本願寺派のたてられた、茨城県、牛久浄苑(うしくじょえん)にある高さが120メートルの阿弥陀像です。

 以上、話も重複したり、何度かに別れましたが、お内仏の絵像の阿弥陀様に対する説明は、ひとまず、区切りをつけさせていただきます。
 次月は、当寺も本山も報恩講ですので、親鸞聖人に関係する話をさせていただく予定です。