第四十一回 お内仏の荘厳(お仏供二)
今回も、お仏供の話です。実は、一回で説明ができる項目だと思っていましたが、なかなか、どうして、奥が深いものです。
前回も、軽く触れましたが、私たちが毎日、お内仏にお仏供を備えるということは、その一日一日が阿弥陀様によって生かさせてもらっていることを感謝し、確認していることの証しです。感謝には、正信偈(しょうしんげ)ををよむ、お勤めも入ります。
さて、今月は、先月の最後の文の補足からです。お仏供を木像は二服、絵像は一服という話でした。
一服というのはお仏供の数え方です。「お茶を一服(本来ならお茶は一杯、二杯)いかがですか」というように、相手方に、敬意を持って差し出すときにも使う表現です。
まず、ここで勘違いをして欲しくないのは、木像の方が位が高いから二服ということではありません。儀式作法では、本来は阿弥陀様に備えるお仏供が一対二服となっております。では、なぜ、絵像が一服かといいますと、これは物理上、仕方がありませんでした。
この写真(1枚目)には、上卓(うわじょく)の上に華瓶(けびょう)が一対、香炉が一基のっております。そして、見づらいのですが、奥に梅型の仏器台が写っております。
写真の規模の大きさのお内仏でしたら、何とか、卓の合間に、お仏供を二服のせることができます。ですが、お内仏が小さくなりますと、安全上よろしくありません。
また、木像の阿弥陀様は、蓮台の上に仏身が立っているという形です。この蓮台は仏身よりも大きく場所を取ります。蓮台は上から見ると円形状になっています。
つまり、一回り大きな円形状の盤に阿弥陀様はお立ちになっているということです。 絵像は言葉通り絵図ですので、蓮台分のスペースがあきます。この場所に仏器台を置き、その上にお仏供を備えるということです。
対して、木像は仏器台を置くスペースがないので、寺院本来の姿といいますか、必然的に上卓の上でお供えをすることになります。
となると、小型にもかかわらず、木像の阿弥陀様を中尊としているお内仏は、お仏供を備える場所はなくなります。そこで、写真上の真ん中の香炉を配置せずに、その場所に一服、お仏供を備えるのです。
そういうときは、香炉を置かなくてもいいの?と、思われることもあると存じますが、実際は、上卓に写真の香炉が用意されてるお内仏は、ほんの一部、お参りする家庭の一割程度しかありません。
その理由は、上卓に乗せる香炉には、大きな特徴があるため、普及しなかったのです。
その香炉は火舎香炉(かしゃごうろ・写真2枚目)という名前です。普通の香炉は、ふたと本体の二分割なのですが、この火舎香炉は四つの部品に分かれています。
中も二重構造で、上は焼香場所、下は沈香(じんこう)を収納する場所となっております。このような二重構造の火舎香炉は、細かい細工上、製造コストが高くなるので、なかなか一般のお内仏には普及しなかったのです。
ということで、上卓の上に火舎香炉がない、お内仏は、その場所に、お仏供を備えてもかまいません。
ですから、安全上、奥まで手を入れることに自信がなくなった御門徒様方には、上卓の上に直接、お供えをしてもいいと指導をしております。
ここで、気をつけなければならないことがあります。香炉がないから変とか寂しいと思って、上卓の上に金香炉を置かないようにしましょう。
もともと、金香炉は前卓(まえじょく)に置くように、燭台や花瓶の大きさに合わせて、用意されております。つまり、上卓に置くには、オーバーサイズということです。その上、金香炉は両側に、とってのようなものがついております。のせても、ぎりぎりなので、お仏供を備えるときに気をつかいますし、危なっかしさは、ひと目でわかると思うのですが・・
のせる方には、一応、一度は注意をしておりますが、昔からといって、なかなかわかってもらえません。
金香炉の話は、場所違いですので、また別の機会に改めて、説明をさせていただきます。
では、次にお仏供を備える時間です。朝のお勤めをすましたあと、すぐに備えましょう。本山でも各別院でも、朝のお勤め終了後に、職員の僧侶たちが備える姿を、見かけることがあると存じます。
引き上げるのは、基本は正午となっております。ですが、ある程度の職員がいる別院なら、まだしも、普通の方は忙しい身です。必ず、その時間にいることなんて強制できませんから、お仏供が変質しないように、手のあいた時間に引き上げればいいでしょう。
お供えや、お引き上げの時間について、質問を受けることもありますが、もう一つ、よく受ける質問があります。仏器台に「白米以外を置いて備えてもいいか」という質問です。
気持ちはわかりますが、まんじゅうなどのお菓子は外のお供え台に、お餅、お団子は専用の供華(くげ)、供笥とも書く、の上に置くように答えています。
少し、返答に困ったのは赤飯です。否定的なことは、どの書物にも書かれてないので、問題ないだろうと思って、大丈夫と答えておきました。
実際、地域的なことだけかもしれませんが、一昔前は、五十回忌法要は、特にめでたいということで、ほとんどの家庭は赤飯を炊いていました。そして、仏器にお供えしていたようです。
まことに私的な話ですが、小さい頃、一週間に一度は必ず、赤飯が食卓に並んでいたので、「またなの、もう、赤飯なんて、あきた」と言ったら、思いっきり叱られたのはいい思い出です。
現在は健康的に五穀米(ごこくまい)がはやっているので、たまに、備えている家庭を見ます。
今回も、とりとめない話が多く、この場をにぎわしましたけど、一服でも、毎朝、阿弥陀様にお仏供を備えることは、真宗門徒としては、とても、崇高であり重要な行動ということを自覚しておきましょう。
お仏供のお話は、まだ続きます。