第十五回 梵鐘
前回まで、報恩講の話をさせていただきましたが、今月は梵鐘(写真1・2)の話に入らせていただきます。やはり年末、普段から煩悩(ぼんのう)の話をしている手前、梵鐘の説明を優先させていただくことにしました。
報恩講の仏具の話は、また来月から再開させていただきます。
さて12月、煩悩、そして梵鐘の話といいますと、皆様方の頭には除夜の鐘(じょやのかね)が浮かばれると存じます。
ですが、本願寺では一月となります。一月一日零時から、初鐘(はつがね)という形で催させていただきます。
名古屋別院でも、一月一日に鐘を撞き始めますから、知っている方は知っておられると思いますが。
では、なぜ一月一日からなのでしょうか。これはちょっとしたした考え方の違いです。
煩悩というものは、今のこの世では悲しいことに、どんなことをしても決して消えることはありません。
除夜の鐘は、煩悩をその年の内に排除させてしまおうという願いを込め、鐘を鳴らす儀式です。
煩悩は、その数108といわれ、その煩悩を一つずつ、年が明ける前に消し去り、その年に起きたいやなことを忘れ、新しい年を迎えるということですね。
除夜の鐘は本来、担当の僧侶たちが、107の鐘を年内に、そして、最後になる108を零時きっかりに撞き、その儀式を終えるということになっていました。
それは、並大抵の気持ちではできません。107の鐘を撞き終わらないうちに年を迎えてしまったら、不成就(じょうじゅ)になるからです。
また、鐘を撞く間隔が一定ではなく、短い長いとかバラバラでしたら良いことではありませんから、そのようなことにならないように注意をしなければなりません。
担当になった僧侶たちは身を清め、精神を研ぎ澄ますようです。一種の荒行(あらぎょう)ですね。
このことは、あくまでも、某本山に務めている僧侶から聞いた話なのですが、本山には何百人の僧侶がおり、大晦日にも百人近く常駐しているらしいです。
近年(江戸時代までは寺社奉行が管理をしておりましたので、新暦以降だと思いますが)から、除夜の鐘はショーとなり始めました。
本来なら、周りがざわざわしていたら集中力が途切れてしまう可能性が高くなるので、音だけを聞かせる儀式だったのですが、見せることにしたのですね。(話によりますと、未だに除夜の鐘の儀式の最中は、僧侶以外誰も入れないところもあるようです)
大衆化が進むと、除夜の鐘の開始時間を、大幅に遅れて撞き始める寺院も出てきました。となると、年が明けてからも、いくつかの数を撞くことになります。
また、現在ではこのようなお寺が一番多いと存じますが、鐘の撞き手を一般の人たちに解放したことです。
僧侶だけではなく、寺に集まった人たちが誰でも打てる(有料のところもある)ようになりました。
そのことによって、除夜の鐘の定義は大きく変わりました。鐘を鳴らしたい人たちに撞いてもらう、ということになりますが、そうなると、まず煩悩の数108という教えが消えます。ここで108になるから、それ以降はお断り、ということができないからです。
当然、人数によっては年が明けてしまいますので、年替わり以降に鐘を撞いた人たちは、正式には、除夜の鐘を鳴らしたことにはなりません。
ある意味、仕方がないことですが、そのようなことになってしまったのですね。
本願寺は、もともと大晦日の夜に鐘を鳴らす風習はありませんでした。
ですが、物事ってそういうものなのでしょうか。除夜の鐘が、前項に説明をした荒行のような形がすたれ、一般の人たちに開放されると、同宗派の寺院が取り入れ始めたのです。
親鸞聖人の教えを引き継ぐ当宗派は、現世利益(げんぜりやく)を推すわけにはいきません。本山から別院、一般寺院にかけて、お札や御朱印を出さないということは、そういうことなのです。
ともすれば、現世利益につながるかもしれない除夜の鐘を、正規にとり入れる事はためらわれました。
ですが、108の数、零時までにという縛りもなくなりましたし、何よりも、年の初めを門徒さんたち大勢のひとたちと一緒に迎えることは、寺のあり方として重要なことでもある、と気づいたのです。
いずことなく初鐘が始まりました。始めるからには、きちんと年が明けてからということです。
煩悩は取り払うことができない厄介なものです。それでも、お釈迦様はそれを克服しました。菩提樹の下で何年ものあいだ瞑想をつのり、煩悩の誘惑に負けず最後に悟りを得たのです。悟りの境地というのは煩悩のない世界です。
鐘を撞くのは合図のときです。初鐘を撞くということは、新しい気持ちで年の初めを迎えたとき、その尊いお釈迦様の教えを聞き、受け継ぐという姿勢をあらわすことじゃないでしょうか。
この煩悩については、私は今まで悪魔という表現をしてきました。
さて、悪魔というのは何でしょうか? 現実上のものではないでしょう。直訳しますと悪意のある魔です。魔というのは魔が差すという言葉が存在するように人の心に入ってくるものです。
魔が入って支配された人は、とんでもない行動を起こします。顔つきも変わり、それこそ悪魔付き、とも言われるような顔に変わることもあります。実際には西洋にはエクソシスト(悪魔払い)という職業も存在します。
東洋でも、鬼という言葉があります。鬼も現実にはいるわけでなく、人の心にすむと言われています。邪悪な心にとらわれた人間が鬼となるということです。
二月になると節分の行事があります。豆を投げて、その心の中の鬼を追い払うという儀式ですね。
その鬼というのも煩悩です。ですが、節分の儀式は、現世利益観がより強くなるので、当宗派で行いません。
初鐘は当寺院も一月一日零時より始めます。本願寺の寺は御朱印がありませんので無料です。元日の日は一日中、どなたが撞きにこられても歓迎します。
そのときは、本堂での、ご本尊、阿弥陀様へのお参りを忘れないようお願い申し上げます。