第二回 欄間(其の二)

写真1/二面目 親鸞聖人

写真2/三面目 蓮如上人

 今回は、中尊両側の欄間について説明をさせていただきます。どちらの面も天人が二人づつ彫られておりますね。
 当宗派の教えから、写真1の祖師前(親鸞聖人)側の説明になりますが、一人は花を捧げているようですね。もう一方は蓮台型の壺を所持しております。壺の中には、香が入っているのでしょう。
 写真2の蓮如上人側の天人におきましては、どちらの方も蓮の花が彫られた独鈷(どっこ)型の錫杖(しゃくじょう)を所持しております。右の方は蓮型の香炉も手に添えておりますね。
 錫杖というのは、修験者が持っている杖で、鈴がついており、歩くとジャラジャラという音がします。
 これらは、香りと音ですね。
 私たちの世界はコミュニケーションは言語なのですが、天人の世界では言語を用いません。実際、世界には何万以上もの言語が存在します。私たち日本人も日本では日本語で相手とやり取りができるのですが、外国にいくと、そんな簡単にはいきません。
 英語圏なら何とかなりますが、どこか、よく知らない国に迷い込んだらお手上げです。相手との意思の疎通を図るのには、身振り手振りしかありませんね。では天人の世界はどうでしょう。
 よく、欄間の天人を御覧願います、二人の天人が人差し指を真上にあげていますね。これは、そのものズバリ、てっぺん、つまりここは天上界を指しています。

 つまり、ここから中は天上界、当宗派の教えでは浄土ということを具現しています。
 そして、残りの二人の天人は、顔は朗らかながらも、指の形は少し変ですよね。人差し指だけではなく小指も上にあげています。これは印相・手印と呼ばれているものです。
 印相・手印という言葉はなじみがありませんが、仏様の世界では一般的です。そして、その仏様たちの手の形には意味があります。一番よく見かけるのは左の手のひらを心臓正面にかかげ、右の手のひらをひざ元で添えるように出しているポーズですが、実際、そのほかにも色々な形があります。ひざの上で左右の親指と人差し指で、だ円をえがくようなものや、左手が👌のような形をしているのもあります。
 今回は詳しい説明までは省きますが、浄土に行く方法を表す九品拳、密教の世界で有名な六種拳などがあります。今回の天人の手の形は、この六種拳の一つ、忿怒拳です。
 一般に、〇〇拳というと、戦いをする拳法を想像しますが、もともと拳という漢字の意味は、五つの指を色々な形に折り曲げた状態を表すということです。
 さて、忿怒拳には怒りという字が入っていますが、天女様が怒るって変な感じがしますよね。ですが、その怒りの対象は同僚や私たち人間ではなく、悪魔、つまり仏教の世界での煩悩です。
 煩悩の話をすると、また長くなるので、簡単に説明しておきますが、この煩悩というのは仏になる道を邪魔する悪党なのです。お釈迦様のお話を読みますと、菩提樹の下で瞑想をしていたとき、色々な魔があらわれて、悟りを開こうとするお釈迦様を邪魔をしにきます。あるときは、威嚇するために怖ろしい獣の形をし、あるときは誘惑するため裸女の姿をしてあらわれます。最終的にお釈迦様は、悪魔たちの威嚇や誘惑に負けず、悟りを得ることができました。
 お釈迦様が悟りを得たあとの初期の経典「長阿含経」には、天人について、「天身に皮膚骨体筋脈血肉あることなし」と記されております。肉体がないということは、現実にはないのに、その存在だけはあるという、まことにありえない不思議な世界であります。
 また、大小便、疲労、出産もないとも記されており、一般では痛みとか苦しみがないのが、天人の世界だと伝えられております。
そして、「身体の色を自由にでき、青をのぞめば青、黄色を望めば黄色、赤白などの色に思うままにできること」と述べられております。
 また、もう一つ仏典には、興味がある記述があります。「願わくば彼の花を取りたし、来って我所に至れ」と、欄間の天人たちが所持をしている花、香炉、錫杖ですが、それは正確に言うと所持をしてわけではなく、道具の方が天人たちの願いによって、手元にたぐりよせられるということですね。念動力、テレキネシスですか。
 何にしましても、視覚、嗅覚、聴覚、味覚、触覚という五感も抽象的とも言えるのです。以上のことから、欄間に彫られている天人たちは匂いを自分たちでたしなんでいるのではなく、香をたくことによって、煩悩を追い払っているのです。
 前回も軽く触れましたが、焼香というのは他者に対してではなく、自分自身が仏の教えを聞く誓いの行動としてするものなのです。悪業煩悩(あくごうぼんのう)に打ち勝つという気持ちの表れなのです。
 独鈷型の錫杖にしても同様なことです。この独鈷とは、密教の道具の一つで、煩悩に立ち向かっていく法具です。錫杖は音によって追い払うときに用います。これは、完全に煩悩を断ち切るということを表しています。よく、密教系のお寺には仁王像が山門両側に立っておりますけど、 あれは、この世の悪業煩悩を中には入れさせないという意味です。四天王も同様です、東西南北の四方向を悪鬼つまり煩悩から守護しているということです。
 天人たちもまた、正しい仏の教えを受けようとしている人たちを、その行く手を邪魔する悪者から守っているということなのです。そして、ここから先は煩悩を入ってこさせない、仏様の世界であるということを示しているのです。
 と同時に、参詣をする人たちも、なかなか断ち切れない煩悩なのですが、できるだけその邪念を振り払って、お参りをしてください、というメッセージではないかと思っております。