第二十八回 報恩講の荘厳 五具足(三)

 報恩講には、その期間だけ荘厳する仏具が数多くあります。それは、報恩講の上位にあたる御遠忌法要のときにも用いられます。
 過去に幾度か、説明や掲載をしましたので、そちらの方をご覧願います。
 今回は、先月、在家のお内仏の話になりましたので、その続きをさせていただきたいと思います。
 前回の瓔珞(ようらく)に続いて、重要な荘厳は具足(ぐそく)です。具足とは、燭台(しょくだい)、香炉(こうろ)、花瓶(かひん)です。
 普段、仏壇の前卓(まえじょく)には三具足が飾ってあります。これが、報恩講になると、五具足になります。燭台一対二本、香炉は一個のまま、花瓶が二点です。
 五具足は基本、報恩講のときにしか飾りません。各家の法事の時には飾らないものなのです。
 ですが、この報恩講、おとりこし(お取り越し)とも言いますが、お内仏の報恩講をやらない家庭ばっかりになってしまいました。当寺の檀家にも、お勤めされるお家も存在するのですが、本当に数件です。
 となると、この五具足せっかく存在しても、飾る機会がなくなってしまいます。そこで、その家庭にとっては重要な行事ということで、法事のときに飾ることになるのです。よほど、厳しいお寺さんでない限り、五具足を飾っても注意されることはありません。
 このあたりのお話は前に説明(第十四回、第十六回)をしたと存じます。  また、これも前回と内容がかぶりますが、五具足を飾るときは、筆返し(ふでがえし)がない下水板(げすいた・写真上)を用います。筆返しは、両横に丸い角のように出ている金細工で、下水板というのは卓の上におく板です。
 その下水板の上に具足を飾るのです。大昔はなかったみたいですが、ある時代から、五具足を飾ることが出来るお内仏には、二枚の下水板がついています。筆返しのついてない板と、筆返しのついている板です。写真に載せておいたので、参考にして下さい。

 ご覧のように、筆返しのついていない板は、まったく水平です。五具足をゆったりと飾ることができます。
 下水板という言葉は、意味を調べると、もともとは、硯(すずり)の底や木で出来た浴槽の底に置く板ということです。なぜ、このようなところに、その名称を用いることになったか、その理由はよくわかりません(花瓶に水が関係するからか?)が、下水板というのが正式名です。

 五具足の話にもどります。燭台一対、香炉一個、花瓶二点なのですが。この燭台は鶴亀の形をしています。なぜ、鶴亀かは以前の回に、ある程度、詳しく説明をしましたので、そちらをご覧願います。
 この鶴亀は、片方が口を開き、対になる方は口を閉じています。これを阿吽(あうん・写真下)といいます。
 この阿吽の形は、鶴亀だけではありません。有名どころでは仁王様です。
 仁王様というのは正式名は金剛力士といいます。観光地によくある、お寺の門の左右に立ってにらんでいる、あの怖そうな仏様のことです。
 また、阿吽のお姿は、神社の狛犬、沖縄の守り神シーサーも同様に使われております。
 浄土真宗大谷派では、普段、三具足に用いる鶴亀が口を開いて(阿)おり、五具足だけに用いる鶴亀は口を閉じて(吽)います。
 この阿吽の話が今回のテーマです。
 仁王像で口が開いているのは、怒りを表した姿、口を閉じているのは、怒りを心の中に抑えた姿だと伝えられております。
 怒りというのは、煩悩の瞋(しん)です。怒りというのは、一番目立つ煩悩ですね。
 人は、どうしても抑えきれない感情が、何かのたびに起きます。それを表にだすか、押さえ込むかの違いです。怒りっぽい人というのは、その感情を表に出す確率が多いということです。逆にいうと、感情を出すのを我慢した人は内にストレスをため込む(爆発したら大事件が起きることもある)ことになります。
 ですから、どちらもいいことではありません。一番いいことは抑えきれない感情をできるだけ起こさないことです。が、それは煩悩がある限り、どうしても起きてきます。
 ですが、無我の境地と言いますか、悟りの世界に近づくにつれ、そのような感情はなくなるのです。
 人生を達観する、と言う言葉があります。最近は年を取って気が短くなる暴走老人という言葉がはやっていますが、年を取ってくると達観される方もいます。
 達観というのは、物事に動じない心ということです。まさに、無我の境地に近づいた状態です。

 阿吽という言葉は、辞書で調べると、始めと終わり、つまりすべての事柄、と意味です。確かに、ひらがなでは最初は「あ」、最後は「ん」ですけど。
 ですが、それだけの意味ではありません。阿吽の呼吸と言う言葉があります。これは、以心伝心といいますか、相手のことをすべてわかって、自分も、それにそって行動をする。
 ある程度の時間は、そのようなことは出来るかもしれません。ですが、それは、その場だけのことです。
 ずーと仲良かった人と、ほんのちょっとのことで絶交状態まで悪化する。よくあることです。
 つまり、阿吽は一時的ではダメなのです。お釈迦様の教えは永遠という言葉の通り、にずっと同じ状態でないといけないのです。中途半端だと、感情がより入って、とんでもないことにつながるかもしれませんので。
 永遠に阿吽ということは、これは、ものすごく難しいことです。煩悩がある限り不可能といってもいいでしょう。ですが、仏様の教えでは阿吽の世界が存在するのです。その世界では、ずーと、競争はおきません。戦争は起きません。まさに、理想的な空間ともいいましょうか。
 その空間は煩悩のない世界でもあります。
 この仁王門は、節分の豆まき行事をするお寺には、ほとんどといっていいぐらい建っております。
 節分、浄土真宗とは違って、密教的な考えの行事ですが、人の心の中に住む鬼、つまり、煩悩の存在を知り、それを、追い払おうとする気持ちを起こすことは、非常に大切なことなのではないでしょうか。
 ということで今回もまた煩悩の話になってしまいましたが、一対の鶴亀にはこのような意味があるのです。