第三十八回 お内仏の荘厳(御聖人二)
御本山の報恩講も無事に、今年も厳修されました。お参りになられた方々、どうも、ありがとう御座いました。
御影堂中央の『見真』の額はご覧になったでしょうか。
見真(写真)は親鸞聖人の大師号(だいしごう)です。真宗の、ほとんどの本山の御影堂には掛かっております。
この大師号は明治九年の報恩講の御満座の日に、天皇家から賜れました。
見真という意味は、「知恵によって真理を見極めること」と辞書には述べられております。
親鸞聖人は『教行信証』(きょうぎょうしんしょう)という著書を残されました。過去ありとあらゆる仏法の教えを参照し、南無阿弥陀仏こそが真実の教えと説かれた書物です。
その『教行信証』は正式名を『顕浄土真実教行証文類』と言います。顕は見ると同様にケンと読みます。顕微鏡の言葉からも、見るの一行動で、ものごとをあきらかにする、という意味です。
まさに、親鸞聖人にふさわしい大師号ということで、当時の本山、寺院の住職たちは、おおいに喜びました。ただ、一部の人たちを残して。
そして、各寺院には、見真大師の絵像が配られます。
御門徒様たちにも、以前は『九字十字名号』であったお脇軸を、大師称号授与を契機として「見真大師」に変えるように奨励します。
そういうようなことで、見真大師の軸も、存在をしているのです。
注意、ここからの話は、仏様の教えとは、関係ないことをあらかじめ一言、申しておきます。
では、どうして、今は親鸞聖人に戻ったのでしょうか?
もともと、天皇家は平安時代から江戸時代にかけて、京都に住んでおられました。
本願寺も京都の地にあります。それだけ近かったのに、今まで大師称号授与の話は出ませんでした。鎌倉末期から四百年以上の長い期間ですので、話には出たこともあったかもしれませんが、文献に残ってないので、出なかったのでしょう。
皆様、承知の通り、親鸞聖人は時の先帝、朝敵扱いを受け、後鳥羽上皇により、恩師の法然上人同様、流罪となりました。
ですが、その法然上人は、江戸時代に「円光大師」の称号を賜っております。そして、そこから五〇年ごと、現在は八つの大師称号を授かっておられます。
最初に賜ったのは元禄時代、徳川綱吉の時です。皆様、(ご存じ)の方が多いと思いますが、徳川家は浄土宗が菩提寺で江戸には増上寺(ぞうじょうじ)、尾張には建中寺(けんちゅうじ)があります。
まあ、時の権力と大きくつながりを持ったということで、許可されたという形になったのでしょう。
聖人の話に戻りましょう。本願寺も、明治になり、大師号が授与されることになりました。
このまま、何事もなければよかったのですが、お東騒動のもととなった『開申(かいしん)』が起こります。
そして、その騒動最中の本山に思わぬ外敵があらわれたのです。
昭和52年11月におきた東本願寺爆破事件です。
この事件は、当時の活動組織、闇の土蜘蛛(やみのつちぐも)によるものでした。
直径二メートル以上のケヤキの柱に直接仕掛けたらしく、被害は柱に傷が付いた程度でしたが。それは、ケヤキの柱がすごく頑丈であったためで、同時期に仕掛けられた平安神宮の方は半壊したそうです。
報恩講準備中の本山、想定外の事件は大ショックでした。正面の金障子は爆風で吹っ飛び、中はぐちゃぐちゃになったということです。
犯行声明は、明治初期の北海道開拓が動機ということです。明治初期に本願寺の北海道開拓によって、大勢のアイヌ人が迫害された、その恨みということです。
爆破事件が起きる前にも、北の狼(おおかみ)、と名乗る活動団体から脅迫をうけていたようです。
確かに、大谷派は明治三年に、ときの法主(ほっす)である現如(げんにょ)上人の先導のもと、北海道開拓を実行しました。そのことによって、北陸の門徒たちは、より広い生活の場を得ることができました。室蘭の港から札幌をつなぐ本願寺道路も建設されました。
一方、この前代未聞の爆破事件によって、本山はかってない大騒動になりました。
本堂自体は倒壊しませんでしたが、もし、爆破時に参詣の人たちが密集していたら大惨事です。
再発を防ぐため、警備が強化されました。
当然、けんけんごうごうと議論が始まりました。
前々から、大師号をいただいたことに疑問に思っていた職員、議員の人たちの声は大きくなりました。
「やはり、このような事件が起きた。北海道開拓は、アイヌ人への侵略的行動だった。大いに反省をしなければならない」 その一方、「いや、当時の事情(廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の流れが本願寺にも迫りつつあった)のことを考えれば仕方がなかった。実際、その行動によって本願寺の寺院は免れたのだ」と
見真の扱い(強硬派は天皇家に返上しろと叫んでいた)についても、議論はずっと続き、そして、2001年から、今後、「見真大師」となっている親鸞聖人の掛軸を、新しく設立する寺院に出したり、門徒の人たちに受けさせること、をやめること、に決めたのです。
あまり詳しく書くと、きな臭くなりますので、おおまか、このような事情だったわけです。
政治的な問題でしたから、今まで、説明の場も少なかったのですが、聖人の脇軸が二種類存在することも事実ですので、その変更になった理由の一つとして説明させていただきました。
まだまだ、寺院の報恩講は続きます。ご縁があったらお参りしましょう。