第二十三回 七高僧

 今年も暑い夏が過ぎると、お彼岸が始まります。
 お彼岸の話につきましては、昨年、説明をいたしましたので、そちらをご覧願います。
 さて、お彼岸には、当宗派では特別な偈文(げもん)を読みます。それは、『往生礼讃偈』です。
 七高僧の一人、善導が称えご製作になられたものです。
「南無至心帰命礼」(なむししんきみょうらい)から始まる偈文で、聖人はこの『往生礼讃偈』を参考にして、『文類偈』『正信偈』をご製作になられました。
 残念ながら、真宗大谷派の真宗聖典には、のっておりません。ですが、この『往生礼讃偈』は、名古屋別院では、お彼岸の初日、中日、最終日の午前九時から、お勤めされるということですので、興味がある方はご参拝ください。

 今回も七高僧の方が話に出てきました。くどくなりますが、親鸞聖人の『正信偈』に書かれている通り、本当に浄土真宗において、大切な人たちだったのです。
 では改めて、七高層の説明をさせていただきます。
 第一祖は龍樹菩薩です。龍樹は2世紀から3世紀頃の人物でサンスクリット語では、ナーガルジュナと呼ばれています。
 龍樹は八宗の祖と呼ばれ、(この場合の八宗とは八つの宗ではなく、すべての宗派という意味です)
 主なる教えは、中観(ちゅうかん)般若(はんにゃ)思想です。空の教えのもとで、『中論』が有名です。
 むろん、当宗派でも重要な方で、著書『十住毘婆沙論(じゅうじゅうびばしゃろん)』で、仏の教えには、難行道(なんぎょうどう)と易行道(いぎょうどう)の二つがある。そして、その易行道というが教えが、親鸞聖人に引き継がれております。

 次は第二祖の天親菩薩です。天親菩薩は世親とも呼ばれています。サンスクリット語ではヴァスバンドゥ、4世紀の人物です。
 主なる教えは唯識(ゆいしき)思想です。清水寺・興福寺・薬師寺などの法相宗(ほっそうしゅう)のお寺は、この唯識の教えをもととしております。
 世親(天親)は、数々の経典の中から、浄土の教えを選び出し『浄土論』をお書きになりました。『浄土論』は、『往生論』とも呼ばれ、正式名は『無量寿経優婆提舎願生偈』(むりょうじゅきょううばだいしゃがんしょうげ)と言います。大経と呼ばれる『無量寿経』という経典の中から、大切なところを取りだし、解説をしたものです。

 これらの教えが中国に伝わり、曇鸞という僧侶が大きく興味を持たれました。そして、注釈書である『浄土論註』(『無量寿経優婆提舎願生偈註』)をお書きになり、 冒頭に、易行道こそ、仏の願力(本願力、他力)に乗じて往生を得る、ことだと述べられました。
 曇鸞は5世紀終盤から6世紀半ばにかけての方です。

 曇鸞の死後、五十年以上たったあと道綽という僧侶が現れます。曇鸞の教えに感銘を受けた道綽は、『観無量寿経』を解釈した『安楽集』を出します。
 道綽は、ある意味、中国仏教に新しい道を与えた人物です。
『浄土論』により、浄土にあこがれる僧侶が現れ、浄土教が派生しました。彼らは、浄土にいくためには念仏が必要だということも理解をしておりました。
 ただ、その念仏の解釈が問題といいますか、間違っていたのです。それまでの念仏は荒行(あらぎょう)でした。雑念を取り除くために、滝に打たれる、木から吊り下げられる、土の中に埋められる、などの荒行をし、そのときに、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と何千回以上、何万回以上、必死に称えていたのです。
 そこで、力をつき、命を落とすことによって、浄土に行かれたという、まことおかしな理屈も通っていました。

 浄土への道については、『観無量寿経』の九品九生(くぼんくしょう)に書かれているのですが、今までの僧侶は、その場所をよく読み込んでおりませんでした。道綽は著書『安楽集』でそのあたりを、きちんと説きました。 ただ、口で「南無阿弥陀仏」を唱えるだけで、浄土にいけるのだと、道綽は、それに浄土門と名付けました。逆に、今までの荒行の念仏については、聖道門(しょうどうもん)と名付けました。
 曇鸞、道綽の教えは、浄土教の僧侶たちに広まりましたが、ごく一部でした。古い考えの僧侶たちからは、「なまけものが、都合のいいことをほざいている」としか、写らなかったようです。
 どんなことでも、古い考えを、新しい考えにするには時間がかかります。古い考えの人たちは、その考えに凝り固まってしまって、なかなか新しい考えを取り入れようとしないからです。

 善導は、その道綽の一番弟子でした。道綽の教えに傾倒し、非常に熱心に師の教えを広げました。
 その甲斐あって、善導以降は、「南無阿弥陀仏」の六字を称える、つまり称名念仏こそが、浄土への正しい教えという考え方が確立されたのです。

 善導大師は、もう一つ親鸞聖人に、大きな影響を与えました。何度も話に出てきた二河白道の教えです。
 これは、著書『観無量寿経疏(しょ)』の『散善義』(さんぜんぎ)というところににあらわされております。
 ほかにも、伽陀(かだ)のもととなる、『般舟讃』(はんじゅさん)の著者でもあります。

 そして、その教えが、そのまま、日本に伝わることになります。
 源信は日本で、その浄土思想を大きく広めた方です。「南無阿弥陀仏」の六字さえ称えれば浄土にいける、と布教をしたのです。
 当時、日本は末法(まっぽう)思想が流行していました。その時流にのって浄土教の考えも広まっていったのです。貴族の人たちは、大きな寺院を建てたりして、阿弥陀様におすがりし始めました。そして、その時代に法然上人が誕生したのです。

 何か、今回は特に専門的になってしまいました。自分ではわかりやすいように書いているつもりなのですが、
今回はお彼岸ということで、当寺の「永代供養塔」のお写真をのせさせていただきました。