第二十四回 浄土三部経
十月です。各寺では報恩講が始まります。幾度も申し上げますが、報恩講は、我が浄土真宗においては最大の行事となります。当寺と互いに参りあいをしている寺院にも、この十月に厳修されるところがあります。
この報恩講というは、これも何度も出てきましたが、親鸞聖人の威徳をしのんでおこなうものです。
では、この御聖人の威徳とは何でしょうか? 一言で言うと、正しい浄土の教えを、より顕(あきら)かにしてくれたことです。
今、よりという表現を使いましたが、最初に顕かにしてくださったのは善導大師でした。
善導大師は、前回の説明通り、浄土教において偉大な方です。よく門徒さんから、「なぜ正信偈を読むとき、『善導独明仏正意』のところで再び、始まるのか?」と尋ねられますが、それだけのお方だったのですね。
その善導の教えを弟子たちが引き継ぎます。有名なのは浄土五祖(法然上人における浄土教において重要な五人の僧侶)の第四祖にあたる懐感(えかん)、第五祖にあたる少康(しょうこう)です。最初の三祖は、曇鸞、道綽、善導です。
彼らが、ほぼ百年ごとに、浄土の教えを大きく広められ、十世紀には日本に伝えられました。
その教えを受けた一人が源信です。源信は天慶五年(942年)に生まれました。天台宗のお坊さんで恵心僧都(えしんそうず)とも呼ばれています。『往生要集』が著書として有名です。
また、同時期に天台宗の空也(くうや)という僧侶が現れました。末法思想を代表する僧侶で、口から南無阿弥陀仏の六字が仏の姿となって現れるという、特徴的な像が教科書にも載っています。
両名、天台宗の僧侶なのですが、浄土教の教えを中心に布教をしていました。
本来、天台宗は天台山智顗(ちぎ)の法華三昧(ほっけざんまい)の教えを旨としていたのですが、長い歴史の間に、総合的な仏教を学ぶ場所になったのです。
それゆえ、源信、空也の浄土思想の教えに傾倒する僧侶たちも現れ、その勉学の場と言いますか一派が誕生しました。末法思想が京の都に広まっていましたから、一派といえども、それなりの力があったみたいです。
その後、法然上人が現れました。法然上人は長承2年(1133年)の生まれで、正式名は法然房源空、代表的な著作に『選択本願念仏集』があります。昭和天皇から大師号をいただき、法爾(ほうに)大師と呼ばれています。
源空という名前は、師である天台宗の僧侶、源光(げんこう)と叡空(えいくう)から一文字ずつとったもので、独立と申しますか承安5年(1175年)、京都吉水(よしみず)の地で浄土宗を開かれました。
親鸞聖人は、この吉水の地で、法然のもとに何人かの弟子とともに、勉学をいそしむことになりました。ところが、ここで法難によって、越後に遠流になります。法然上人も土佐に流されます。
聖人の兄弟子二人、住蓮(じゅうれん)・安楽(あんらく)が、後鳥羽上皇の寵愛する女官、鈴虫・松虫の二人を出家(尼さんした)させてしまったからです。
上皇の怒りにより、兄弟子二人は斬首され、吉水教団は解散させられます。「承元の法難」と調べれば、詳しい内容がでてきます。
越後に流された聖人は、そこで布教を始めます。関東に移り住み、42歳のとき、ふとしたことから、浄土三部経を千回読誦されようと思い立ちました。浄土三部経というのは、浄土思想の聖典と申しますか、法然上人が非常に大切にしていたものです。
ところが、その途中、読む気が起こらなくなってしまったのです。身体が疲れてきたとき疑問が起きたのです。自分がしていることは、正しい阿弥陀様の教えなのか!
阿弥陀如来は念仏を私たち凡夫を救う他力として示しておられるにもかかわらず、自分が浄土三部経を、心身疲れながらも読誦するということは、まだ、自力の行にこだわっているのではないかと。
ここで、聖人は、浄土三部経を理解しようと読誦することも大切なことだけど、南無阿弥陀仏を称えるだけで、皆わけへだてなく、浄土にいけるということ、を改めて関東の民の人たちに、教えることこそが、もっと大切であると悟ったのではないでしょうか。
そして、その後、貞応三年(1224年)『教行信証』を著され、浄土真宗を開かれました。今年、立教開宗八百年がご本山で厳修されたことは記憶に新しいことです。
今回、最初の写真に提示してあるのは、この浄土三部経です。正式には四巻なのですが、『仏説阿弥陀経』だけはそろっていません。おそらく習礼(しゅらい)のときに、どこかに持ち込んだかと思います。
この三巻ですけど、左から、『仏説無量寿経上』『仏説無量寿経下』、『仏説観無量寿経』となります。
無量寿経が上下巻ということで、少し不思議になる方もいると存じますが、こちらが本当の無量寿経です。
今の無量寿経は、昭和になってから編纂されたもので、約四分の一の長さに縮められています。観無量寿経も、半分ぐらいに編纂されています。阿弥陀経はそのまま。親鸞聖人は、当時、このボリュームのある旧三部経を千回、読誦しようとなさったのですね。
江戸時代では浄土宗を旨とする将軍家、特に愛知県では尾張徳川家の力が非常に強かったので、浄土真宗門徒においても、三部経を聖典、とする教えが大きな影響力を持っていました。
法事のときは、三部経を読むことが必修とされたのです。その三部経も、旧三部経ですので、読誦するのは数時間もかかりました。その間に、午前の間食、昼食、午後の間食と三度の休憩があったようです。
このことは、明治・大正を経て、写真にあるように、昭和三十一年に在家法要のための昭和法要式が誕生するまで続きました。昭和法要式ができるまでは、法事は一日がかりだったのです。
今の法事は、親鸞聖人の書かれた正信偈(同朋奉賛)を含めて、だいたい小一時間ぐらいです。なかなか、理解をしてもらえることも大変で、一昔前までは、「三部経を読まないなんて手を抜いている」と言われましたけど、今ではそれもなくなりました。
現在は、折り本を使うのが当たり前ですが、昔の書物はすべて巻物でした。次回からは、報恩講に使う巻物について説明をしていこうと思っています。