第二十回 名号(其の一)

 今回は名号(みょうごう) について、お話をすることにいたします。この名号は本願寺にとっては、とても重要なものなのです。そして、その名号には、六字、九字、十字と三種のものがあります。
 「六字名号」とは「南無阿弥陀仏」です。本願寺の本質そのものであり、ちまたでも、よく聞く言葉です。ほかの既存仏教、時には神道系の宗教の方も用いておられますね。
 意味につきましては、とても一朝一夕に説明できるものではありません。しかし、残念なことにその意味を間違って解釈されていることが非常に多いです。
 自分に起きる事象、仏教用語で機法(きほう)と申しますか、今回は名号の紹介だけですので、これ以上の説明は本当に遠慮させていただきます。

 本願寺中興の祖と呼ばれる第八世の蓮如上人は、この「六字名号」をことさら大切にされました。
 『蓮如上人御一代記文書』の七十には、「他流には、名号よりは絵像、絵像よりは木像といふなり。当流には、木像よりは絵像、絵像よりは名号といふなり」というお言葉を残しておられます。この蓮如様のお言葉の意味は、うちの宗派は、木像より絵像、絵像よりは名号が大切だということです。

 そして、その数何千以上とも言われる六字の名号を書き残され、それらは、蓮如上人の御真筆(ごしんぴつ)の六字名号として、今でも、皆様方の目に触れられることとなっています。
 当寺も、記録上は頂戴したということですが、長い時を経た今日、残念ながら残ってはおりません、
 「六字名号」のお話を続けますと、本当にきりがなくなってまいりますので、今はこれくらいにさせていただきます。

 では、九字・十字の名号の話に入らせていただきます。今回、この九字・十字名号をテーマにしたのには、これらの名号が皆様方のお内仏にもかかっていることが多いからです。
 今回、写真となっているのは、京都御本山から出されている「三折本尊(みつおりほんぞん)(写真上・下)」です。
 本尊、阿弥陀如来の右に「帰命尽十方無碍光如来(きみょうじんじっぽうむげこうにょらい)」という文字が書かれていますね。これが十字名号です。
 対して、左には 「南無不可思議光如来(なむふかしぎこうにょらい)」と書かれております。こちらが、九字名号となります。
 真宗大谷派では、このように阿弥陀様の右方には、宗祖親鸞聖人の代わりに「十字名号」左方では蓮如上人の代わりに「九字名号」をかかげることを推奨しております。
 実は当僧、御門徒様方から二度ほど、同じ質問を受けたことがありました。
 “うちの仏壇ですが、おとなりの仏壇と違って、親鸞聖人のところが文字になっていますが、間違っていませんでしょうか?”
 まあ、こんなような質問です。この質問には、はっきりと答えることができませんでした。中途半端に答えてしまうと余計な混乱を招くからです。結局、
 “昔は御絵像でしたが、今は御本山は、絵像より名号の方を推奨しております。だから、決して間違っていることはありません”
 このような返答にしか言うことができませんでした。次の機会に、「三折本尊」を持っていき、見せましたので納得をしてくれたと思うのですが・・
 そのようなこともあり、いずれ機会があったら詳しい説明をしようと思ったわけです。
 説明といっても、これもまた簡単には説明できるものではありません。とは申しましても、何もしないなら始まらないので、本当にさわりの部分だけ説明します。
 「九字名号」「十字名号」というのは、詳しい説明は後にさせていただく予定ですが、宗祖親鸞聖人が、本尊の「南無阿弥陀仏」に対して表した言葉です。
 「南無不可思議光如来」の「南無不可思議光」というお言葉は、正信偈の二句目にもあります。最初の句は「帰命無量寿如来」ですね。これもまた「南無阿弥陀仏」を表しています。

 これら、すべてのお言葉が「南無阿弥陀仏」を指すとなると、少し違和感を感じるかと思います。
 それは、言葉によって、「帰命」と「南無」に分けられていることです。でもそれは矛盾でも何でもありません。「帰命」は漢語、「南無」はサンスクリット語の違いです。
 「南無」を使うのは阿弥陀仏だけではありません。有名なのは、「南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)」です。他にも、「南無観世音菩薩(なむかんぜおんぼさつ)」、「南無弥勒菩薩(なむみろくぼさつ)」、「南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう)」などが御座います。
 語源はnamasです。それを、中国で漢字二文字にしただけです。ですから「南無」の文字には意味がないのです。ただ、南をな、無をむ、漢字(中国では普通に使っている文字)にあてはめただけです。
 このnamasの意味は帰依するです。帰依するというのを、ざっくり訳すと、心から従います。おおせのままに、という意味でしょうか。これが中国では「帰命」という熟語になったのです。
 何か、御意に近い言葉ですね。ただ、御意はあくまでも、相手が目の前の格上の人間限定ですから、スケールがまったく違いますけど、
 「南無」「帰命」というお言葉を称えるということは、仏様の教えを聞いた私たちが、その教えを心から疑いなく受け入れるということなのです。

 「南無」と「帰命」が同じ意味ということは、真宗の教えにも、はっきりと述べられております。
 蓮如上人の『御文』にも、何度か出てきます。なじみのある五帖目からは
 第九に「南無の二字は帰命のこころなり」
 第十一に、「善導のいはく、『南無といふは帰命、またこれ発願回向の義なり』」
 そして、第十三に「この『南無阿弥陀仏』の六字を善導釈していはく、『南無といふは帰命なり』」
 当寺も昔の御遠忌のときに、記念品として『御文』の五帖目をお配りしたので、お手元にあればご一読願います。

 善導というのは中国のお坊さんの名前です。その説明を含め、続きの話は次回にさせていただきます。