第十九回 紋(其の二)

 本山の慶讃法要も無事に終わりましたので、話を荘厳にもどさせていただきます。
 前回、五具足について話したのですが、そのとき、花瓶、金香炉(写真3枚目)について紋の違いについて説明が、今一つでしたので改めて説明をさせていただきます。

 さて、その二つの紋のことですが、真宗には寺紋と家紋、二つの紋がある寺が存在します。昔からの真宗のお寺は、戦国時代の豪族上がりが多く、自分の一族の家紋と、寺に与えられた紋です。
 戦国時代ということは、蓮如上人以降ということですね。ごくまれに宗祖親鸞聖人の時代からという古刹寺院も存在はしておりますが。
 当寺も一応、家紋と寺紋、二つの紋を持っておりますが、拝領された寺紋を主に使っております。
 京都御本山においても、大谷家家紋と本願寺紋の二つが存在します。「八藤紋(写真1枚目)」と「抱牡丹」です。
 「抱牡丹」は約1年前に説明をさせていただきましたので、今回は「八藤紋」を中心に説明をいたしましょう。

 蓮や牡丹と違って、藤には、仏様の教えとの関連性はうすいです。
 では、なぜ藤なのでしょうか。それは大谷家が藤原氏の末流であるからです。
 もともと、苗字は源平藤橘(げんぺいとうきつ)、つまり、源氏、平氏、藤原氏、橘氏がもととなっております。地元の英雄、前田利家のように菅原氏の末裔もおりますが、ほとんどがこの四氏と伝えられております。
 藤原家の話になりますが、実際、御門徒さんの伊藤家、加藤家、佐藤家、安藤家は、「下り藤(写真2枚目)・上り藤」どちらかの家紋を使っているところが非常に多いです。
 ということで、八藤紋なのです。

 親鸞聖人が藤原氏ということは、『御伝鈔』『御俗姓』にはっきりと記載されております。
 その御俗姓の最初のところには
『夫(それ)祖師聖人の俗姓をいえば・藤氏として・後、長岡の丞相、内麿公の末孫・皇太后宮の大進、有範の子なり』
 というくだりがあります。
 つまり、父親は藤原有範(ふじわらありのり)ということです。
 ですが、藤原氏といっても、そんな裕福な暮らしではなかったようです。都の僻地である日野の里に住んでいたので、日野有範という姓名でした。
 日野家というのは、後の歴史にもでてきます。「正中の変・元弘の変」で鎌倉幕府倒幕をはかった日野資朝、日野俊基。「応仁の乱」のもととなった日野富子が有名です。

 聖人と日野家の関係は、出身だけではありません。大谷家はその後も日野家と大きなつながりを持ちます。
 聖人の娘に覚信尼(かくしんに)という方がおられました。
 覚信尼は本願寺第三世覚如(かくにょ)上人の祖母です。覚如上人は、先ほどの『御伝鈔』『御俗姓』を残された方です。覚信尼は同族の日野広綱(ひのひろつな)のところに嫁ぎました。そして、覚如の父である覚恵(かくえ)をもうけたのです。
 本願寺は三代目から女系ということですね。
 覚信尼は、日野広綱の死後、小野宮禅念(おののみやぜんねん) のところに嫁ぎます。そして、小野家の所領地であった京都大谷の地を譲り渡されました。
 その後、大谷の性を名乗ることになったのです。
 ということで、藤原氏の藤を用いているのです。

 「八藤紋」については、第十世法主の証如(しょうにょ)上人が、その紋の袈裟(けさ)をつけておられたという記録が残っております。
 証如上人は九条家の猶子(ゆうし)となった方で、そのとき、九条家から八藤をいただいたということです。
 この九条家は、本当に本願寺とは密接な関係があります。古くは親鸞聖人の最初の奥方が九条家の娘ということです。当時、聖人は範宴(はんねん)という名前でした。比叡山の修業時代、関白、九条兼実(くじょうかねざね)の娘と密会され、お子様を授かられたようです。
 このあたりの話は、小説の『親鸞』(五木寛之著)に細かく書かれているので一読されればよろしいかと存じます。

 そのことが関係あったかどうかわかりませんが、大谷家の歴代法主は九条家の猶子となります。
 東西本願寺に分かれた後も続き、西本願寺の御門主は九条家の猶子(東本願寺は前回説明をしたとおり近衛家の猶子)となっております。
 九条家と西本願寺の関係はなおも続きます。
 明治時代になり、大谷探検隊で有名な第二十二世鏡如(きょうにょ)上人は九条道孝(くじょうみちたか)の娘を嫁にしています。ご存じの方もいらっしゃるかと思いますが、九条道孝の娘の一人は大正天皇のお妃です。つまり、当時の鏡如上人と大正天皇は義兄弟ということになります。九条家と本願寺の関係はそれだけではなく、鏡如上人の弟、浄如(じょうにょ)上人(注 大谷派前門首の淨如上人とは別人)もまた九条道孝の娘を嫁にします。
 鏡如上人は子供がいなかったので、西本願寺は現在、この浄如上人の子、勝如(しょうにょ)上人が第二十三世となり続いております。
 そういうことがありまして、西本願寺の大谷家紋は「下り藤-西六条藤」なのです。ちなみに寺紋は第十一世の顕如(けんにょ)上人が豊臣秀吉から賜ったもので、「五七の桐」です。

 このように話が長くなりましたが、寺紋は仏、家紋は人と区別をしているのです。
 ということで、金香炉は正面を「八藤紋」にします。「八藤紋」は人、「抱牡丹」が仏ということですので、写真の「抱牡丹」は阿弥陀様の方を向いていることになります。

 ※当寺の寺紋「五三の桐」は、寺伝によると真宗寺院としての証である「九字名号」「十字名号」を賜るとき、故あって、「十字名号」の方は、西本願寺から賜ることになりました。そのとき、「五三の桐」もいただいたということです。
 それ以来、前田家の家老奥村家の「九枚笹」よりも「五三の桐」を重要視するようになりました。
 「九字名号」「十字名号」については、重要な荘厳の一つですので、来月に説明を予定しています。