第四十八回 お内仏の荘厳(華束一)


 今年も報恩講の季節がおとずれました。毎年、説明をしている通り、報恩講は宗祖親鸞聖人の遺徳をしのぶ、浄土真宗の最大の行事です。
 報恩講の説明は大切なのですが、過去に何度も説明しておりますので、そちらをご覧願います。

 今回は、その報恩講にも用いる仏具、供笥(くげ 写真)について説明をさせていただきます。
 「供笥」は「供華」という文字を用いて、説明がしてある仏教解説書もあります。
 笥という漢字を辞書で調べますと、箪笥(たんす)という言葉にも使われているように、「木(竹)で造られた入れ物」と説明されております。
 また、「木製の食器」という意味もあります。つまり、供笥とは、お供えする木製の食器という意味です。
 真宗では、供笥を用いるときは、特別な法要の時です。さきほど、話に出てきました報恩講、また各家庭の年忌法要がそれにあたります。正月、お盆、お彼岸の時も、
 ということで、普段は、お供えをしなくても、かまわないものなのです。ですが、お月経に参らせていただきますと、普段でも置かれてある家が結構ありました。
 今までは、真宗本来の教えの上から、あまり小うるさく言う事柄でもないので、それほど、気にはしていませんでしたが、しかし今回、このコーナーで取り上げることになった手前、意識をしながら各家のお内仏を見させてもらい、そのことについて、改めて気づかさせていただきました。
 お供えしてあるといっても、ほとんどの家の容器は、から(空)です。何も入ってない、空の供笥だけが備えてあるということです。(八月、九月ということもありまして、仏様を大切にされる家庭は、お盆、お彼岸の期間には、飾られた供笥に、お供え物がのせてありました)

 前回、お仏供を空でお供えすることは、よいことではない、と申しましたが、理由は同じです。人様の前に、何も食物がのっていない容器をずっと長時間、置いておくのは、よい行動とはいえないでしょう。
 でも、犬や猫のようなペットの前では、面倒だからという理由で、置いたまま、ということもしますね。
 むろん、お内仏は人とは違います。ですが、面倒だから、しまわないという考えは、敬うべき対象(仏様)にむけては、止められた方がよろしいかと存じます。
 また、最近では、供笥自体が、どのようなものかわかっていない方も、ちらほら出てきました。うまく表現ができませんが、阿弥陀様前に一対置く、格好のいい飾り物の一つという意識でしょうか。
 供笥は、実際、見栄えのいいものです。お内仏用には、色々な形のものが御座いますが、今回、写真に載せましたのは、寺院用とほぼ同様なものです。
 ご覧のように、八角形型の二つの部品と八枚の紙でできた花びらがあります。この花びらを方立(ほおたて)と呼びます。本体側は木製で金箔が押してあり、蓮水画が描かれております。
 一対がセットになっていまして、写真をよく見ますと、方立は一枚の上に三枚が重ならないように順繰りに重ねてあります。左側が時計回り、右側がその逆ということです。蓮水画も微妙に違っており、左側が赤い蓮が上で、右側は白い蓮が上になっております。太陽が東から登って西へ沈む、拝む側から見て、左が陽、右が陰という陰陽道の教えがもとらしいです。
 八角形の理由はバランス上だと思いますが、こちらもまた、本願寺の基本的で重要な教え、四十八願からきているという説もあります。ただし西本願寺の供笥は六角形です。
 先ほど、「供笥」を「供華」と記してある書物があると述べましたが、このように、花びらに特徴があるので、通称として、供華と書かれているのではないでしょうか。
 また、浄土真宗では、供笥に載せるお供えのお餅の飾りを、お華束(けそく)と呼んでおります。
 供笥には、もう一つ特徴があります。分割された写真の方を、よくご覧になってください。八角形の表面に、宝珠(ほうじゅ)型の穴が開いておりますが、写真正面の部分だけには、上下とも、ふさがっております。そのふさがっている箇所を、仏様に向けて、お供えをするのです。
 理由はといいますと、穴が開いてない場所を、敬いの対象物に向けてお供えする。このことが、正式な敬いの仕方であるという、日本古来の教えにのっているからです。

 これだけだと、よくわからない説明ですので、三方(さんぼう)を思い浮かべてください。
 三方というのは、日本古来からある、お餅をお供えする台のことです。白木で作られた四角形のものなのですが、四面中、三方向だけに宝珠型の穴が開いているので、三方と呼ばれています。正月のお供え、お月見の絵や写真とかで、よく見るものでもあります。
 三方の穴の意味には、神道の教えからだという説もありますが、仏教の仏・法・僧の三宝(さんぽう)が由来だという説もあります。
 お供えをするときは、この宝珠型の穴が開いてない面を、敬いの対象物に向けるのが作法です。
 ですから、供笥も、その教えにしたがって、一カ所だけ穴が開いてないということです。

 お仏供の説明のおりに幾度も、仏様にお仏供を備える(お給仕をする)ということは、毎日毎日、お世話になっている仏様に感謝をし、その仏様の教えをいただいている、証というような説明をしました。
 その感謝、という教えは、仏教だけではありません。キリスト教・イスラム教も同様でしょうか。
 おおまかな解釈をしますと、人は生きているのは、自分の力だと思っているけど、実は自分の力で生きているわけではない、不思議なものの力で生かさせてもらっている、という教えです。
 この感謝の対象である不思議な力というのが、キリスト教の神や、イスラム教の神ということなのでしょう。
 古代エジプトや中米では太陽神(太陽こそが神)という教えもありました。実際、太陽がなければ人間や生き物は生きることはできませんので。
 日本の八百万(やおよろず)の神も、信仰の対象となる不思議で崇高な方々です。
 先ほど、少し話に出てきた、お月見の話も同様です。
 三方に、のせられた月見だんごがお供えものにあたり、満月が信仰の対象となります。満月に、穴のない面を向けてお供えをします。
 なぜ、このような、真宗らしからぬ、お話をしたかといいますと、今年は十月初旬が、中秋の名月にあたります。
 三方のことを説明していましたら、ついつい、中秋の名月が近いことが頭に浮かんできました。神無月を迎える時期に浮かぶ、まったく欠けていない完全な形の月というのも、日本人にとっては神秘的で、おごそかな対象だったのでしょうね。
 お華束の話は、来月も続きます。