第二十六回 報恩講の巻物(二)
前回、「式文」「嘆読文」に触れましたが、今回は御伝鈔(ごでんしょう)についてです。この御伝鈔は、前回説明をした、親鸞聖人のひ孫に当たる本願寺第三世の覚如上人が書かれた巻物で、報恩講の中逮夜(ちゅうたいや)だけに詠まれるものです。
この儀式は、京都御本山では十一月二十五日、名古屋別院では十二月十五日、部屋を暗くして行われます。
一般寺院でも逮夜には詠まれるところがあります。
御伝鈔卓の上に御伝鈔箱(写真1)があり、その箱にかかっているひもを一年に一度解き、二本の御伝鈔火灯の、ろうそくの火の明かりだけで格調高い口調で詠まれます。
これらには、題目がついており、上巻では、①「出家学道」(しゅっけがくどう)②「吉水入室」(よしみずにゅうしつ)③六角夢想(ろっかくむそう)④「蓮位夢想」(れんにむそう)⑤「選択付属」(せんじゃくふぞく)⑥「信行両座」(しんぎょうりょうざ)⑦「信心諍論」(しんじんじょうろん)⑧「定禅夢想」(じょうぜんむそう)
そして、下巻では⑨「師資遷謫」(ししせんちゃく)⑩「稲田興法」(いなだこうぼう)⑪「弁円済度」(べんえんさいど)⑫「箱根示現」(はこねじげん)⑬「熊野示現」(くまのじげん)⑭「洛陽遷化」(らくようせんげ)⑮「廟堂創立」(びょうどうそうりつ)と呼ばれております。
この御伝鈔の絵巻物の絵だけを四輻の軸にしたのが御絵伝(ごえでん・写真2)です。
今回は、自坊の軸を写真に収めることができましたので、それをもとにして、軽い説明をさせていただきます。
これら、四幅の軸は、左からではなく右から見ていくことになります。少し違和感がありますが、小説本を読む感覚でしょうか。
ですが、それだけではありません。実は物語は軸の下から順番に始まるのです。当時は、このような様式だったのでしょうか。右端最下段からというのは慣れませんが、そのようなものとしてご了承ください。
あと、少し不敬ですけど、混乱をさせないために、あえてコマという表現も使わせてもらいます。
まず、この四軸ですが、一幅目が五コマ、二幅目が四コマ、三幅目が六コマ、四幅目が五コマとなっております。計二十コマですね。
「御伝鈔」は上巻下巻を合わせて十五段でした。つまり、一段を二コマ以上を使っている段もあるということです。
では、簡潔に中身を見てみましょう。
一幅目は二コマを最初に使います。上から五コマ目、四コマ目が「出家学道」です。
聖人が九才のとき、伯父に連れられて青蓮院に入ったところと、得度して、お坊さんになられた場面です。
さて次のコマですが、聖人が二十九才の場面からとなっております。この間、スパッと二十年間がぬけてます。この比叡山の修行時代の二十年間の間に聖人は、最初の妻となる九条関白の娘、玉日姫(たまひひめ)と逢い引きをします。
そのあたりのことは、五木寛之著の「親鸞」に、ことこまかく書いてありますので、そちらを一読してください。
そして、比叡山を下りた後、
上から三コマ目が、上巻第二段の「吉水入室」
上から二コマ目が、上巻第三段の「六角夢想」
これらは、法然上人の出会いをあらわします。
上から一コマ目が、上巻第四段の「蓮位夢想」です。
二幅目は、
上から四コマ目が、上巻第五段の「選択付属」
上から三コマ目が、上巻第六段の「信行両座」
上から二コマ目が、上巻第七段の「信心諍論」
上から一コマ目が、上巻第八段の「定禅夢想」別題では「入西観察(にゅうさいかんざつ)」とも呼ばれております。第四段の「蓮位夢想」を加え、すべて、吉水時代の聖人の逸話です。
三幅目は上から六コマ目から三コマ目の四コマが、下巻第一段の「師資遷謫」となっております。
「師資遷謫」という難しい題名ですので、別題では同じ意味でわかりやすく「師弟配流(していはいる)」とも呼ばれています。
四つの絵図は、興福寺奏状、朝廷詮議、土佐配流、越後配流、聖人の転機をあらわす大切な場面ですから、四つの絵図に別れているのでしょう。
越後から関東に入って、
上から二コマ目が、下巻第二段の「稲田興法」
上から一コマ目が、下巻第三段の「弁円済度」
となっております。
四幅目は
上から五コマ目が、下巻第四段の「箱根示現」
上から四コマ目が、下巻第五段の「熊野示現」
上から三コマ目が、下巻第六段の「洛陽遷化」
上から二コマ目、一コマ目の二コマが、下巻第七段の「廟堂創立」です。遷化された(お亡くなりになられた)聖人の葬式、そして、その遺影を廟にした(まつりあげた)場面です。
御伝鈔における逸話をいろいろ見ていますと、題目に夢想という言葉が三度③④⑧、示現(書物によっては霊告)という言葉が二度⑫⑬出てきますが、これらは、どちらも、普通ではありえない状況をあらわす言葉です。
覚如上人は、それらの神秘的な話をところどころに、ちりばめています。また、覚如上人は歴代上人の中では、特に☆本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)の考え方が強かったお方です。時代の背景もあると思いますが。ですからこそ、聖人をより神格化して、後生に伝えようとしたのでしょう。
そのため、前述した玉日姫との密会、前回ふれた善鸞義絶などは、「僧にあらず、俗にあらず」という(教行信証の後序に書かれている非僧非俗の宣言)聖人の人となりを知る、大切な事柄なのですが、意図的に、はずされております。
あまりにも、大げさにあがめ立てる表現が多いことや、そらぞらしいということで、真宗関係者の中にも、すんなりと受け入れられない人たちもいますが、やはり、伝統を重んじるには、この「御伝鈔」は「式文」「嘆読文」同様、聖人の威徳を偲ぶ報恩講にはなくてはならないものなのです。
☆本地垂迹説とは、本地からあとを垂れるという意味で、仏様が衆生を救う教えをあまねく広めるために、全国、津々浦々の神社に、仮の形として神様の姿になって現れている、という教えです。
神社でも「南無阿弥陀仏」を称えなさい、という考え方に波及して、論争のもととなった。