第十四回 報恩講の荘厳 五具足(一)
前回、打敷の話をさせていただきました。報恩講のような大きな法要になりますと、前卓(まえじょく)の荘厳は五具足(ごぐそく・写真1枚目)という形にとなります
燭台が一対(二体)、花が一対(二本)香炉が一基の計五つです。
普段は左から、花、香炉、燭台の飾りとなります。
また、普段の飾りは「大谷派透かし香炉」といって青磁色の陶器でできた香炉です。
五具足となると、金香炉に変わることもあります。
金香炉は以前説明をしたとおり、唐獅子型です。
お内仏にはそろっているので、確認をされたらよろしいかと思います。
では、次に燭台の話に入ります。これは、鶴のような形ですね。よく見ると鶴だけではなく、四つの部分に分かれています。上から、蓮軸(れんじく)・ろうを受ける蓮型の皿・鶴・亀です。
燭台の火が灯っているということは、法灯、仏様の教えを受け継いでいるということを表しています。 ですが、どうして鶴亀の形をしているのでしょう?
皆様に尋ねると、真っ先に、縁起物だからという答えが返っくるかと思います。「鶴は千年、亀は万年」といお言葉もありますからね。
確かに、一部には縁起物という役割があるかもしれませんけど、もっと重要な意味があります。
まずは、燭台の形が動物であるということです。
お釈迦様の教えは、論理を超えたものであり、かつ永遠なものです。論理を超えているものですから間単には説明ができるのものではありません。
そのことをわかりやすくするために、荘厳の形があるということは以前にも説明させていただきました。
仏典のなかにも、「比喩品(ひゆほん)」というものがあり、たとえ話がたくさん残っております。
お話の登場者は、王様、長者、僧侶、奴隷などが、あるのですが、たいていが動物がでてきます。
お釈迦様の入滅(亡くなられたとき)時を描いた絵や彫物を見ると、多くの動物が参列しております。
十二支の始まりの話を含め、お釈迦様と動物の話は本当に多いのです。
動物の形を燭台にしたということは、人を含め、すべての生き物が、それぞれ一つ一つの命を持っている、平等である、ということを表しています。そして、そのそれぞれの命は、仏様の(不思議な)力によって、生かさせてもらっていることを感じなければなりません。
鶴亀については、おそらく、皆様方はこう思っているでしょう。縁起物だからと。実際、「鶴は千年、亀は万年」といお言葉もありますからね。
確かに、一部には縁起物という役割があるかもしれませんけど、もっと重要な意味があります。
それは、鶴の足が亀の背中に乗っていること(写真2枚目)です。
これは、あくまでも私が先輩の僧侶から受けた説明ですので、正論でないかも知れませんが、鶴と亀、この二体が一つになることで、物事が成り立つと言うことです。
鶴は容姿がすぐれて足が長いけれど、前に進もうといするとき足下をみることができない。逆に亀は。見てくれはごついけれど、足がしっかりとしているので、ささえることができる。
人にたとえると、仕事は、かなり早いけどミスが多い。もう一人は、期日に間に合わないほど遅いけど、仕事は確実である。
理想な人間というのは、その両方をバランスよく、かねそなえた人間です。鶴亀一体、このことは、人間だけではなく、すべての事象にもあてはまります。正反対のものがご縁として一緒になるからこそ、今、私たちが生かさせてもらってる世界が成り立っているということです。
では、次は蓮軸(写真3枚目)の話をさせていただきます。写真では、わかりにくいと思いますが、中央が実である蓮根、外側は蓮の花、内側は蓮のつぼみとなっています。
左側の燭台は左回りに、右側の燭台は右回りに、蓮の実、つぼみ、花という形です。これは、蓮を通して物事の成り立ち生を表しているのです。
蓮の実からは種が出ます。その種が飛び散って、その種が落ちたところから芽を出します。そして、大きくなって花を咲かせます。その花から、また種が出るという。
つぼみ~花~実~つぼみ~花~実ということを繰り返しているのです。これは、生き物の一生を通して、改めて仏の教えが永遠であることを教えているのです。
では五具足の話に戻ります。鶴形の燭台ですが、よく見ると、左側が口を閉じ、右側が開いています。亀も同じように左側が口を閉じ、右側が口を開いています。三具足の場合は、口を開いた鶴と亀が燭台となっています。
(自宅のお内仏で確認してください、もし普段、鶴や亀の口が閉じていたら間違った荘厳です)
この開いている口と閉じている口を仏教用語では阿吽(あうん)と言います。あは言葉の始まり、うんは言葉の終わりです。阿吽は、すべてという意味を指します。
この教えは、個体、時間、空間を超えた密教の小宇宙観から成り立っています。一口に説明ができるものではありません。ですが、五具足で、その阿吽を表現したということは意味があります。
阿吽で一番に思い浮かべるのは仁王像です。仁王像というのは寺の山門に安置してあることが多いです。
なぜ、山門かと、その答えは寺の中に侵入者をいれさせないためです。その侵入者とは煩悩です。
欄間の天人のときも、同じような説明をしました。
何度も繰り返しになりますが、仏様の教えを受ける心構えを大きくすれば、大きくするほど自分をみつめ、自分が、本当に弱い存在であるということを、自覚することが大切ではないでしょうか。
最後に先月説明をした須弥盛の写真を入れておきます。須弥というのは須弥山(しゅみせん)から来ています。須弥山はサンスクリット語でsumeru、と書きます。
密教の世界では、この山を中心として、仏様たち(四天王等)が世界を守っていると伝えられております。