第六十一回 報恩講 2026


 八月に入ります。お盆を迎え先祖のことを省みる時期になりました。お盆の説明につきましては過去の八月のコーナーを読んでください。一通り説明しております。

 今月も繰出位牌(写真上)のお話です。位牌の話を語るには先祖がつきものです。くしくも、新盆の七月、そして八月に先祖のお話をしますのは、話の流れからなったのですが、何か縁を感じます。
 では、この繰出し位牌ですが、家によってさまざまな用い方をしております。たいていのお内仏は一基だけなのですが、なかには二基どころか三基もあり、最高では四基のところもありました。そのような家のお内仏は、置く場所はなくなり、結局、下の段に置くことになります。もちろん理由がありまして、
 ①一つ目の理由は勘違い特に敬いのしすぎのケースです。どういうことかと申し上げますと、新たに亡くなられた人が出られたとき、中には何も記入されてない板が残っているのにかかわらず、新しく繰出しを購入する家です。
 本来なら、いくら、見た目が古くなっても、代替わりをされても買う必要はないですが、気分的な問題でしょうか、購入してしまうのですね。中には、完全に禅宗のお位牌と同様に扱ってしまって、亡くなられる度に購入した人もいました。
 ②二つ目は亡くなられた人の数が多すぎて、たしていたらいつのまにか複数必要となった場合です。お参りをするところには、先祖代々、幾代も続いておられる家もいくつかあり、先月も説明をしたような法名軸にされない場合は、この繰出位牌に法名を書くことになります。
 表に法名、裏に俗名を書き込む仕様になっていますので、一基に7,8人しか入れることができません。それ以上に増えることになりますと、位牌は二基、家によっては三基ということになります。

 このような、亡くなられた人が多い家庭の繰出位牌には、興味深いこともいくつか起きてます。
 ①まずは、中の板の表と裏に別の法名が書かれていることがあるのです。一枚の板に二人の法名、初め拝見をした時は、そんなこと考えず見逃してしまいました。このような法名は例外なく、大昔のものですから、50年忌はとっくに終っていたので、法務自体には影響はありませんでしたが。
 ひと昔前は、たいていのお寺は役僧を数人雇っていました。そのなかの僧侶が、頼まれたときに表に法名、裏に俗名という方式を知らずに書き写したか、当主自身が整理のために書き写したということでしょうか。
 ②次には、板の大きさや太さが全く違うことです。こちらの板はペラペラ、こちらの板は分厚い、また、こちらの板は位牌にきちんとはまるサイズ、こちらの板はスカスカということです。
 法名については年度順に書かれている家がほとんどですが、中にはどうしても解せないような家があります。なぜ、年度をそろえると、でこぼこになるのだろうと? そこの家の人に聞いてもなんともいえない顔をするだけで、やはり事情は分かっていないようです。
 その並べると、でこぼこになる理由はわかりませんが、板が二種類以上ある理由は明確です。①買いたすときにサイズのことを考えずに購入してきた。②仏壇屋に行ったら立派なものがおいてあったから、そっちを買ってきた。③仏壇を洗濯したり購入したとき大きな位牌がついてきた。というようなことが考えられます。
 板の太さは、やはりそのころ物資が乏しかったのか、時代でしょう。うっかり強い力を入れると割れそうなものもあります。黒ずんで文字の見えにくいのもありますが、気を付けて扱ってください。

 このように、位牌を複数お持ちの家庭がありますが、複数の位牌を持つことは必ずしも、具合が悪いことではありません。区別の為に必要なときもあります。
 それは、断言まではできませんが、二つの家柄が関係している時です。家柄という言葉から見ても本家新家(ほんやしんや)の関係ではありません。
 人は家にも様々な事情があり、亡くなられた方を、大切に思っております。この場合も次のようになります。
 ①一例目は家に嫁に入った者、または婿に入った者が、実家の親の位牌を持ってきた場合です。ひと昔前は、これまた勘違いな心で持ってきた場合がありますが。今では事情が変わりました。本当に跡を継ぐ者がいなくなったので、せめて、お位牌をだけでもと持ってくるのです。同じ宗派だといいのですが、中には禅宗の方式を本願寺に転換してということも。さすがに、そこの宗派の本尊や仏様を持ってきて、お内仏に入れることはだけは絶対認めませんが、位牌までは仕方がないでしょう。
 ②二例目は、逆のパターンです。嫁いでいった娘や、養子に行かれた息子が向こうで葬式をされているのにもかかわらず、写させてもらっておいている場合です。こちらも親としては、亡くなられた子供の命日だけは、忘れないようにしておくという気持ちなのでしょうか?
 さて、そのような場合はどうしているのでしょうか。そのために繰出位牌には、あるものが入っております。写真にあるようなカシュー塗りの一枚の黒い板です。仏壇屋に聞きましたら、この板に苗字を入れて、先祖代々と金色の文字で書くということらしいです。『〇〇家先祖代々』というような風に。このようなことで、複数の繰出位牌も意義が出てくることがあるのでしょう。
 もともと本願寺公式の仏具ではないので仏壇屋さんの言葉を聞くしかありませんが。この先祖代々の黒い板の向こう側に、50回忌を終えた人たちの法名を移される仕切り、としても使う方もおられるということです。多少はなるほど、とは思いました。確かに50回忌をすぎてしまえば、亡くなられた方は先祖になります。

 さて、その黒い板への文字書き込みですけど、お寺ではできませんので仏壇屋に頼むことになります。そして漆黒のカシュー塗りの板に文字を入れるとなると、その方法は限られてきます。
 金箔を溶かした顔料で細い筆を用いて金色の文字を書くか、板に字をあらかじめに彫り込んで、彫り込んだところに金箔を溶かした溶剤を流し込むということになります。前も説明をしましたが金は形を変えることがあっても、質量は紛失しない限り絶対に減りません。かえって溶かした方が、すぐ風に飛ばされてしまう金箔よりも質量が残る可能性が高いです。金箔はお内仏のあちこちに用いられておりますので、その時、改めて説明させていただきます。
  なお、表紙の写真はお盆に荘厳する切子灯籠(写真下)の上部です。


 本年も報恩講の時期になりました。一年に一度、宗祖親鸞聖人の遺徳をしのび、その御恩に感謝する法要です。
 毎年、同じことを書いていますが、それだけ、報恩講とは真宗における最大行事です。
 今でも、北陸の地方では「報恩講で始まり、報恩講で終わる」という言葉が伝えられています。
 普通は一年というものは、正月で始まり大晦日で終わる。または、四月始業式で始まり、三月に終業式で終わるものなのですが。それと同じように、報恩講は思われているのですね。
 親鸞聖人の御命日は歴史的には、十一月二十八日です。
 書物にも残っていますし、そこのところは間違いありません。よって、この十一月二十八日に御満座を迎える宗派は真宗十派中、お東大谷派を含めて八派存在します。
 仏光寺派・興正派・木辺派・出雲路派・誠照寺・三門徒派・山元派です。それだけの数の本山が、この十一月に報恩講を迎えるということです。勤修(ごんしゅう)期間は十一月二十一日から二十八日までの八日間、一七ヶ日 (いちしちかにち)と呼ばれています。
 十派というからには、残り二派があります。二派は、そうそうたる宗派です。最大の宗派、お西、本願寺派と、もう一つは高田派です。末寺の数は、この二派の方が多いのではないでしょうか?
 こちらの方は年が明けて、一月九日から十六日までの一七ヶ日の間、勤修されます。理由は、前に説明をしたと思いますが、御聖人が亡くなられた、1262年(旧暦弘長二年)に合わせますと、ちょうど、一月十六日にあたるということです。
 お西の人たちから言うと、この一月の寒さこそが聖人の亡くなられた日の厳しさをあらわすのに、ふさわしいということなのでしょう。
 何はともあれ、大谷派の寺院(別院、末寺)は、まず十一月二十一日から二十八日の間の八日間は報恩講を行いません。御本山の時期にするなんて、不敬といいますか、とんでもないことでしたから。現在、もし、そのようなお寺がありましたら、何か含みがあって勤修されているのでしょうね。世の中変わりました。行動の自由な世の中になりましたから。

 この報恩講、本来なら、真宗寺院の住職たちは、みな参加をしなければならないぐらいの行事なのです。親鸞聖人を宗祖と仰ぐ門徒、住職たちは何をさしおいても参るべきであると、大昔は、そのあたりの意識は今とは比べものにならなかったようです。そのころの時代は、電車や車が存在しません。「京都に必ず集まれ」なんて、現在では、まったく考えられませんけど、まあ、宗派全体がそういう雰囲気だったということです。
 さすがに、何事もすべてというわけにはいきませんので、ある程度の裁量はあったと存じますが。京都御本山の前は、それはもう口では言い表せないぐらい大変に、にぎわいました。
 御本山の周辺には宿坊がいくつも立てられ、ご門徒様たちがお泊りになっていました。尾張地方用の門徒のためにも、宿坊は用意されていまして、ほんの近年まで、『中島郡詰所』という名前の宿がありました。
 これ以上は詳しくもうしませんが、ある程度は、頭の中で想像してください。ほぼ全国、五千以上の末寺が、一定数のご門徒を連れて御本山に集まられる姿を。
 本山の法要座数は七日かける三座の二十一座です。三座というのは、逮夜(たいや)晨朝(じんじょう)日中(にっちゅう)の三座をさします。この三座を一昼夜と呼んでいます。ですから、報恩講は何昼夜行われるかで、寺の格式も決まってくるわけです。名古屋別院は毎年、十二月十三日から十八日までの五昼夜です。むろん、名古屋教区の末寺は、この六日間の間も自坊の報恩講から外すことが、暗黙の了解になっております。
 地方の別院では、たいていが四日間の三昼夜法要です。
 末寺でも、もし、今でも四日間の法要を行われるところがありました、別院クラスだと思ってもらっても構わないでしょう。
 さて、二十一座に全国の寺院と申しましても、江戸時代でも一万近くはあったということですから、とても、この二十一座では入りきれません。おそらく、場所によっては数ヶ寺がグループを組んで、本山とあらかじめ交渉をして準繰りにお参りをいたのでしょう。
 何にしても大昔は電話すらもない世の中です。かといって移動にもことかく時代、本当にどのように門徒様方は本山に集まっていたのでしょうか?
 伝えられている書物によりますと、満堂という言葉では表現ができないぐらい、本堂のはしからはしまで、踊り場から階段も、ご門徒様でうまっていました。その状況は近年になっても続き、あまりにも危なく見えたので、大手の旅行会社が真っ先に保険をかけたという話もあったみたいです。

 今回の写真は、その本山報恩講の外陣の様子です。大勢の僧侶が大きな声を上げて声明(しょうみょう)をしています。御満座の様子でしょう。
 なぜ御満座かと申しますと頭を下げている僧侶たちの写真がぶれています。これは頭を上下に激しくふっているからです。つまり坂東曲(ばんどうぶし)を法要している状態です。この坂東曲というのは、京都御本山だけでしか勤修されません。坂東という名称が付くだけあって親鸞聖人が関東で布教中、船に乗って利根川下りをしていたとき、その船の中で必死に念仏を称えていたというお話がもとです。大きく体が揺れていたということですから、そのときの川は大荒れだったのでしょう。そんな状況ですから、想定以上の風が吹いてきたら、船はたちまち転覆です。まさに、命がけの念仏を称えていたということです。ものすごい、鬼気迫るような念仏だったということです。今でも京都御本山の報恩講の「とり」にあたる結願日中(けつがんにっちゅう)である御満座では盛大な法要となっています。「なっ」というまわりに響くような大声を最初に挙げて、上下左右に首や体を大きく揺らせます。そして、「ああああああああ」と大声で声明をしているのですから。衝撃的な感動を誘う他に類を見ない法要となります。ですから、この坂東曲を聞くためにご門徒たちは、露骨に言えませんが。ものすごい席取りがあったようです。最近では、かなり、落ちついてきましたが、やはり今でも、坂東曲を生で見るには相応の努力が必要なようです。もし、興味がありましたら、声だけでも聞こえると思いますので、十一月二十八日の日中法要には、本山報恩講にご参拝ください。